栄養ちゃんのぶろぐ

低血糖症を治す新社会人

八日目の蝉を読んでみた

むかしから、読書感想文が苦手で国語の成績はいつも悪かった。

読書感想文というよりは、文章を書くということや、自分の思ったことを相手に伝えるのがかなり下手で、友達に「何が言いたいのかよくわからないんだけどw」とよくいじられた。

なので、大学時代は何が言いたいのかよくわからないキャラに天然ボケを足したような

不思議系キャラクターを演じていた。完全に黒歴史である。

 

どんな仕事についていようと、社会でそれでは通用しないので、社会人になってからたくさんの本を読んできた。

知識をつけ、考え方、伝え方を身に着けるために。

しかしどれだけ読んでも、OUTPUTをしないと意味がないと感じ始めたので

これからは、小説を読んだ感想をたまにあげてみようと思う。

 

以下、八日目の蝉を読んで、深く印象に残った点と自分の感想である。

 

・P230

私にとって「あの事件」とは、知らない大人たちに連れられて別の港に向かい、フェリーで岡山港に着き、そこから車に乗せられ、生まれて初めて新幹線に乗った、あの日からを指す。あの日の前に起きたことではなくて、あの日のあとから続くこと。

 

新幹線の窓に目を向けると、信じられないようなスピードで光景が流れていた。四歳の私はそれがこわくて、窓のほうを決して見なかった。光景が流れるその速さが、今までいた場所から引き離される距離と等しく思えたのだ

 

世間一般には、誘拐されたと聞けば不幸で同情を買うことだが、えりな(薫)にとっては、それが日常で当たり前のことだったのだ。自分を誘拐した犯罪者との間にも愛情が生まれる。

 

・P234

あれはいつのことだったんだろう。寒かったから冬になっていたのか。私は家出をした。帰ろうと思った。あの人とおばさんたちと有里ちゃんたちが待つあの場所に。(中略)しかし、歩いても歩いても家々はとぎれなかった。私の行く手を阻むように立ち並んでいる。車が土埃をあげて幾台も通りすぎる。自転車がすれ違う。私の知っている緑がない、嗅ぎ慣れたあの甘辛いにおいがない、歩いても歩いても海は見えない。セーターしか着ておらず、痛いくらい寒かった。あの日乗った新幹線のことを思い出した。こわくなるほど早く流れた窓の外の景色。あのくらい早く走らなければ帰れないのかもと思いつき、私は走り出した。走って、走って、走り続けた。道のずっと先に、あの人が両腕を広げて私を待っているはずだった。きらきらと輝く海を背景にして。(中略)私のいる場所はもうここしかないのかもしれない。その日、アパートに連れ戻された私はようやく理解し始めた。

 

誘拐犯かもしれないが、幼少期から育てられた母なのだ。帰りたいと思える場所なのだ。

 

・P256

「あなたは子どものころ、世界一悪い女に連れていかれたの」それまで、父にも母にも、両方の祖父母にも言われていたことが、そのときすとんと、隅々まで理解できたのだ。なにもかもつじつまがあった。おかしいと思っていたことの理由が分かった。私は遠い国の王女なんかじゃなかった。あの家こそが私の家なのだ。父が私を知らない子どものように扱うのは、母が怒鳴ったり泣いたり夜にいなかったりするのは、「あの事件」のせいだ。あの事件、いや、私の記憶にかすかに残るあの女こそが、私たちの家をめちゃくちゃにしたのだ。(中略)ぜんぶぜんぶ、私ではなくあの女のせいだ。(中略)まるで世界がゆっくりと反転していくようだった。世界一悪い女。父と母が言っていることが正しいと、このとき私は初めて知った。

 

世間と自分との考えの差に気付き、感情の変化が起こる。「知った」という表現から著者が誘拐犯を肯定していないことが分かる。

 

・P320

「前に、死ねなかった蝉の話したの、あんた覚えてる?七日で死ぬよりも、八日目に生き残った蝉のほうが悲しいって、あんたは言ったよね。わたしもずっとそう思っていたけど」千草は静かに言葉をつなぐ。「それは違うかもね。八日目の蝉は、ほかの蝉には見られなかったものを見られるんだから。見たくないって思うかもしれないけど、でも、ぎゅっと目を閉じてなくちゃいけないほどにひどいものばかりでもないと、私は思うよ」

 秋に千草と見上げた公園の木を思い出した。闇にすっと立っていた木に、息をひそめる蝉をさがしたことを思い出した。あの女、野々宮希和子も、今この瞬間どこかで、八日目の先を生きているんだと唐突に思う。私や、父や母が、懸命にそうしているように。

 

あの事件を通して、世間にさらされつらい思いをしてきたが、みんな八日目の蝉を生きているんだ。施設で生まれ育ち、こうきの目にさらされている千草だって懸命に生きているのだ。素晴らしいことだとおもう。希望が湧いてくる。

 

・P345

なぜだろう。希和子は歩きながら、両手を空にかざしてみる。なぜだろう。人を憎み大それたことをしでかし、人の善意にすがり、それを平気で裏切り、逃げて、逃げて、そうするうちに何もかも失ったがらんどうなのに、この手の中にまだ何か持ってるような気がするのはなぜだろう。いけないと思いながら赤ん坊を抱きあげたとき、手に広がった暖かさとやわらかさと、ずんとする重さ、とうに失ったものが、まだこの手に残っているような気がするのはなぜなんだろう。(中略)いつか自分も海をわたることができるだろうか。海は陽射しを受けて、海面をちかちかと輝かせている。茶化すみたいに、認めるみたいに、なぐさめるみたいに、許すみたいに、海面で光は踊っている。

 

誘拐という罪を犯してしまったものの、八日目の蝉として生きていく世界は、思ったより暗い世界ではなく、希望もあふれている。もう会うことない、えりかも希和子もそれぞれの希望あふれる世界を生きていくに違いない。

 

 

何年か前に映画化し、有名となった小説で

私の好きな作家さんの一人である角田光代さんが書いた傑作である。

今回、読んでみて犯罪を犯してしまい、罪の意識を感じながら暗く生きるのではなくて、

最後は希望を感じる書き方になっていて読んでいてとても後味がよかった。

何度か、血がつながっていない母子の愛情の強さを感じて泣いたところもあった。

角田さんの作品をもっと読んでみたいと思った。